教師猫ってどんな猫(4)
人間学?
しじみさんの『指圧師に必要な知識』の問いに答えたいと思いますが、教師猫自身が日々暗中模索し結論を見い出せない、語っても語りきれない、教師猫の永遠のテーマでもあり“解としての条件を満たせない答え”となることを教師猫自身が承知して答えます。
指圧師(治療家)に必要な事柄の究極は『母心』だと考えます。ですから、指圧師(治療家)には『母心』が求められます。そして、世に『母心』という言葉が意味もなく溢れています。『母心』の真の意味を語るほど、教師猫は熟してはいませんが・・・。追い求めてはいます。
理論を“個々の事実や認識を統一的に説明することのできる普遍性をもつ体系的知識”と定義するか“ある問題についての特定の学者の見解”と認識するかによって見解が分かれますが、法則性を明らかにする学問である『科学』は、体系的であり経験的に実証可能な知識でなければなりません。再現性が不可欠である『科学』、二度と繰り返せない『人生』の両者は時として両極に位置すると考えます。『ひと』の分析は〔墨字〕で不可解と考えながらも〔情動と理性脳〕の関わりから“自律神経は末梢性物理刺激に規則的に反応する”と論じ“師匠の技芸”であった押圧法の科学的な理論化や技術化に教師猫は取り組んでいます。
指圧師(治療家)に必要な知識は数多く存在すると考えますが、根幹を成すのは『人を人として遇する』ことと『患者は患い人』との認識だと考えます。人は物ではありません。人には物の法則ではなく“人の法則”を当てはめ、患い人には故障物ではなく、“患い人の法則”を当てはめてください。人のTPOや“声”と“声の音”による反応の異なりを認識してください。“二重振り子”のカオスな動きも、一つの振り子を止めれば最も単純な動きとなります。
『指圧の心・母心』というスローガンは有名です。母心について、師匠、浪越徳治郎先生は『子を想う母の心』と解説されましたが、教師猫には異論があり、師匠に苦言を呈したこともあります。なぜなら、指圧(押圧法)の起源は浪越徳治郎少年の病に苦しむ“母を想う心”にありました。多くの動物実験において、母子間の忘却速度は“母の方が早い”という結論に至っています。母の愛は海よりも深しと言いますが『海』の中に母はいます。母が子に『痛くないよ』と告げるとき、教師猫には『注射するのはあなただから、お母さんは痛くない』と聞こえてしまいます。病んでいる母に子が『お母さん痛くない?』と問うときの想いは・・・。身動き一つで全身に激痛が走る関節リュウマチで苦しむ母を押す。母を苦しめないために全神経を母指に集中し、一押毎に『痛くない?』と問い『気持ちいい』との答えに安堵する。徳治郎少年の母を想う心、これが母心の原点だと教師猫は考えています。
教師猫は、“徳治郎少年の母を想う心”が母心の原点と考えています。しかし、教師猫には“少年の母への想い”を指標とし具体的な押圧法の科学的な理論化や技術化を行うことが困難なため、現時点では便宜上、『指圧の心・母心』をそのまま引用して、母心を実践する方法として、『患者さんの母親が自分と同じ知識と技術を持つならば如何に対応するか・・・そこに身を置け』と指導しています。
しじみさんの“問いの答え”として書き始めたのですが、説明が混沌としてしまいそうです。“指圧師たるものこれ位の知識は必要”という問いを『指圧師の不可欠な知識』と捉えれば答えは“正しい指圧知識”となるでしょう。『治療家の必要知識』と捉えれば、“母心の条件を指圧師として満たす知識”となると考えます。“教師猫のHP内容は指圧、医療といった分野に留まらない”とか“何を専攻したのか”と教師猫専攻科目を問われることは多いのですが教師猫は、“臨床現場で患者さんの問いに答えているうち”に多くを学びました。教師猫はこれらを『人を人として遇する人間学』と捉えて、人を“個性ある個人”として包む妨げとなる細分化や理論化を好みません。特に、心を“切り刻む分類”は治療家に不適と考えます。
いつから?
教師猫が「テニスボール」での練習を始めたのは、指圧学校1年の1学期です。「ビー玉」は2年になってからだったと記憶しています。「テニスボール」の練習は、当時治療室勤務の同じクラスの寮生(1年生の夏休みに退寮)に話をした翌日に治療部の先生に呼び出され、大目玉を食らったので明瞭に覚えています。その後、教師猫に限ってですが、寮生相手の治療部での練習や治療部の先生から実技指導を受ける機会が非常に少なくなりました。徳治郎先生に、教師猫独自の練習法を話したことはありませんのでコメントもありません。